五章[五章]昇は成す術もなくうろたえた。 茂子はその袋の中に口元を入れた。 たもとを見ると鼻血だというのに薄い色をしていた。 先程のカキ氷のような赤い色をしているが、血のようにベッタリしたものではなく、やはり先程のカキ氷のように サラサラした赤い水のような物で藍染めの絞りのゆかたの白い部分は染まっていた。 昇の心臓はドキドキしていた。 「シーちゃん、これはどうしたの、本当に鼻血なの」と尋ねた。 茂子は落ち着きを取り戻していて「ええ、鼻血よ」と答えた。 そしてポツリポツリと話し出した。 「十年余り前に白血病になったの。 それで関西に戻って来たの。 二年前に油断はできないけれど、もう大丈夫でしょうと言われたわ」 その間も水のような鼻血がポタポタと袋の中に落ちていた。 「最初の頃はこんな血が出るなんて知らなかったから横になっていたの。横向きの時は良かったけれど、ウトウト してしまって上向きになっていたのね。胸が苦しくて体を動かしたとたん、胃に溜まっていた血を思い切り吐いたわ。 ふとんも畳も着ている物もきれいな薄い赤色に染まったわ。私、その時、血ってなんてきれいな色をしているのかしら、 まるで石榴のようだわ、って思ったわ」 昇は「話すんじゃない、静かにしている方がいい」とたしなめたが茂子は「大丈夫よ、もう慣れているから」と 言って続けた。 「今でどれ位経つかしら」と聞いた。 昇は「出始めてから15分位かな」と答えて「それがどうしたの」と尋ねた。 「出始めてから時間を計って1時間近く同じペースで出血したら病院へ行って止血して貰えばいいの。 さっきより少しましになって来たように思うわ」と言った。 昇が袋を覗こうとしたら茂子の方が顔を少し引いた。 中はおぞましい色に染まっているのではないかと思っていたが、きれいな透き通るような鮮やかな赤い色で染まっていた。 「本当、きれいな色だね」と言う昇に「ね、とてもきれいでしょ」と茂子は言った。 昇は時間が気になった。 「もうそろそろ30分位は経ったかな」と言うと茂子は「もうじき止まるわ」 そう言って「ティッシュをもう少し作って」と頼んだ。 昇は一生懸命ティッシュを剥がした。 茂子はそれを再び袋の中に入れ、先程のように又、口元を袋の中に入れた。 「ね、こうすると薄い赤色がよけい薄く見えて心のショックが和らぐでしょ」 そう言う茂子は目だけ出していたが、心なしか虚ろに見えた。 しばらくして茂子は「もう止まるわ」と再びささやくように言った。 そして昇に「ねっ、見て、もうこんなに薄くなって」と言って袋の中を覗かせた。 「本当だね、きれいなピンク色になっている」と昇もつぶやくように言った。 「もう大丈夫だね」と茂子の顔を見た。 「私のは急性でなく慢性だったの。分技点というのがあってそこで慢性から急性に変わると初めの頃お医者様が言ったわ。 私はギリギリの所で見つかったの。入院を、と言われたけれど、そんな事するともう帰って来れないと思って拒否したわ」 昇は驚いた。 「私、どんな事しても、もう一度帰ってきたかった。逝きたくなかった。だから入院しなくていいのならどんな事でも しますと言ってきかなかったの。先生はそうですか、と言って念書だけ入れて下さい、と言ったので一切の責任は問いません という念書を印鑑証明を付けて出したわ」 「医者は困っただろうねえ」 「ええ。でも判りました。僕も協力しましょう、と言って食べてはいけない食品の傾向やしてはいけない事を教えてくれたの。 献立も立ててくれたわ。摂取しなければいけない物なども毎週書いてくれたわ。東京のおばさんには詳しくは言ってないの。 でもどうしても仕事だけは変わらなくてはならなくなって妹の由美に相談したら、良い機会だから関西へ帰ってきたら・・。 近くに住めばいい、と言うので東大阪へ戻って来たのよ」と途切れがちに話した。 昇はその頃から直美との生活が始まり、すぐ子供も生まれて忙しいが充実しかけていた。 昇は人生とは何と皮肉に満ちたものかと思って聞いていた。 茂子は「由美ちゃんの近くにいるようになってホッとしたのか、紹介されたお医者様との相性が良かったのか、仕事をパートに したのが良かったのか、少しずつ良くなりかけて2年前に、もう大丈夫でしょう、良くがんばりましたねって言って下さったのよ」 と言いながら寂しそうな瞳をむけて微笑んだ。 昇は何か言おうとしたが言葉が見つからなくてただ押し黙ったまま頷いた。 一時間近く経っただろうか、茂子は「すっかり止まったわ。行きましょう」と昇を促した。 昇は店員に丁寧にお礼を言って店を後にした。 時間を見ると10時半になろうとしていた。 「シーちゃん、そろそろ帰ろうか」と言うと「喉が渇いたわ。 冷たいものが欲しいわ」 と言うので近くのイノダコーヒーへ入ろうと思って覗いてみると人で一杯であった。 仕方なく座れそうな喫茶店に入った。 昇は冷たいコーヒーを頼んだ。 茂子はミックスジュースを頼んだ。 昇は茂子を見ると涙がこぼれそうな気がしてずっと目を伏せていた。 二人は黙っていた。 飲み終わる頃、茂子が「昇さん、私、長く生きられないかも知れないけれど、そうなっても あなたは私の分迄長生きしてね」と言った。 昇は頷きながら「ウン」としか言えなかった。 喫茶店を出ると茂子は「タクシーを拾って」と言うので堀川通りまで出た。 運よくタクシーはすぐ拾えた。 茂子はこのままタクシーで家まで帰ると言って乗り込んだ。 茂子は今度も涙は見せなかった。 タクシーの窓を開けて右手を少し上げて小さく振りながら「ありがとう、さようなら」 と言った。 その車を見送りながら昇は何となく胸の支えが取れるような不思議な気がしていた。 茂子はこの次いつ連絡をくれるだろうかと考える昇の耳に祇園囃子が聞こえていた。 [六章へ] |